
仕事中にヒロスが、カルピスウォーターを更に水で割って飲んでいた。
「私にはこの位が丁度良いですね」
試しに一口飲んでみると「微妙にカルピスかも?」な甘い冷水だった。
「俺の家はこの位の薄いカルピスでしたから……」って少し言い訳がましくヒロスは言うが、俺はガキの頃にカルピスを飲んだ記憶が殆ど無い。
昔のテレビ番組、あの日曜カルピス劇場の合間のコマーシャルで、カランコロンと氷が滑りあうコップの中へ注がれるカルピス、ガキの頃あれは一つの憧れだった。
「いったい、どんな味がするんだろ……?」
白地に濃紺の水玉のパッケージは、なんかとてもイカした飲み物を想像させた。
確か初めて飲んだのは婆ちゃんの家だったと記憶するが、俺はあの奇妙な甘さに変な感激を覚え、婆ちゃん達の目を盗んでほぼ一瓶飲んでしまった。
重量感のある厚めのガラス瓶から出てくる、あのドロッとした乳色の原液は、程よく割って飲むと「金持ち」の味がしたっけ(ガキの勝手なイメージですけども……)。
そういや、夏のお中元カルピスにはフルーツカルピスってのがあるなんてのも、憧れと悔しさが半々の複雑な標的だったが、フルーツカルピスは飲んだ記憶が全く無い。
ま、この先も一生飲む事は無いだろうけども……。
珍しい事に、日曜休みを過ごす。
親父は日光へ森林についての何とか(?)をしに行き、オフクロは都内へ研修(?)の為、前乗り宿泊で外出。
今夜は二人とも帰ってこないから、俺一人で気ままにウダウダ。
一月以上も放っておいた手紙の返事をやっと書き、遠くに祭り太鼓を聞きながらギターをポロポロ鳴らす。
夕立をぼーっと眺めていたら目玉の奥が霞みだしたので、縁側で手足を投げ出して雑魚寝すると、奇妙な夢を見た。
風が開け放しの窓から心地よく吹き込んで来る。
その風がたまに勢いよくカーテンを捲り上げると、カーテンの向こうに銀毛の大きな猫がこちらをむいて座っている。
俺は確かに寝ているのに、その猫が俺をじっと見ている事を分かっている。
辺りはあの夢の中特有の、青黒いけど暗闇と云うわけではなく、ぼんやり薄暗い感じ。
何処か遠い様な、もしくはかなり近い様な所から、あの……名前を忘れたけども、アフリカの琴みたいな楽器の音がしてる。
カーテンが捲れ上がる度に、大きな猫が現れ、アフリカの琴の音がはっきりする。
俺はね、分かってんだ。
その猫が何しに来たのか。
俺は自分の二つの目で見た訳ぢゃないけども、分かってんだ、お前が誰なのか。
だけど、意地でも目を覚ましたくない。
カーテンが風で捲り上げられる度に、俺は知らんぷりを決め込む。
暗い部屋の中で、風がびゅんびゅん吹き続けてんの

たまたま知り合った女性から「うちのお店にいらっしゃいよ」と巧みな誘いを受けて、ちょっと分かりずらい場所に在るその店に足を踏み入れたのだった。
入った途端に、場違いな所へ来ちまったなと後悔したが、予約も入れてしまったし後には引けぬ。
小綺麗な雰囲気の店内には見た事の無い抽象画が二、三枚飾ってあり、ショパン、否、あれはシューベルトか……が静かに流れていて、さながらサロンと云った風である。
「それで、こちらが先生なんだけど、先生にしてもらうと少し料金が高くなるのよ。どうする?」
前評判では相当の凄腕だと聞いていたし、二千円位の上乗せで怖気づいては男が廃る。ここは一つお手並み拝見と了承すると、
「少し待ってもらうけど、時間は大丈夫?」ときた。
あいた〜それは困るや。夕方には用事があるもの……。
「それじゃ、今日は若い娘に担当をお願いするわね」
その言葉が言い終らぬ内に、フロントの左手奥から快活そうなお姉ちゃんがヒョイと出てきた。
「こちらへどぉぞ〜」
俺は案内されるままに、訳の分からん抽象画に挟まれた、窓に一番近い席に深く腰を下ろす。
窓の外はいまいちはっきりしない空模様である。
「どんな感じになさいますか?」
さてさて、ここまで勇んで来たけれども全く「感じ」など考えておらぬ。
兎に角、君に全て任せるよ、ともう殆ど放棄試合である。
彼女はあからさまに困惑の表情を浮かべつつ、愛想笑いを無理矢理ひねり出していた。
俺もさすがにこれはあんまりかと、この店へ来る迄の経緯を手早に説明した。
以前暮らしていた町には馴染みの店があった事。
その店に十分満足していた事。
こちらへ越してからは、何処へ行ってもまるで駄目な事。
なので、初めてのこの店もある種、挑戦である事などなど。
「なるほど……以前は何処にいらしたんですか?」
俺が懐かしい町の名を告げたその時、彼女はパッと表情が明るくなり、
「あたしの彼が、仕事で今暮らしてますよ! なので私もよく行きます!」
と勢いよく言葉を継いだ。
そこからは、懐かしの町の話題でアレコレ会話が少し弾む。
俺はね、あの町をロックの町にしようとしていたんだけれど、途中で引き上げちゃったんだ……。
「ロックですか……」
そう! だから、ロック全開な感じで宜しく頼むよ!
「……分かりました。ロックですね……」
彼女はたっぷりと悪戦苦闘をした末に、なんとか俺の頭の上に彼女のロックをのせた。
うむ。中々、良いぜ! 気に入ったよ。
なんだか、やっぱり巡り巡ってゆくんだなぁ〜。
今日も今日とてドロドロに汗をかきながら、えっさほっさと労働に従事する。
血流がオーバーヒートして頭がガンガンしやがる。
「……俺、倒れるな……」
なんの、なんのと夏生まれの底力で太陽と真っ向勝負。
一っ風呂浴びてさっぱりしている自分を想像しながら、第二回戦へと挑む。
「ぐわーぁっっ! 今度こそ倒れるな……」
あからさまに塩化ナトリウムが欠乏している。
スーパーに寄ってなるたけ青いプラムを購入し、勢いよく一口齧ると酸味で意識がはっきりした。
続けしなに五つ程食べてから、がぶがぶとポカリを流し込むと下半身も踏張りを取り戻した。
よりによってこんな暑い日に内容の重いババを引いてしまう自分の星を呪いながら、自分の中の何かと何かがシンクロしてゆくのがありありと分かる。
ノッてくると俺は頭で考えない。
感だけで体が動いてゆく。
この場合、勘ではなく、感と云った風であるからフィーリングであろうな。
しかし、そうは云っても仕事であるから全開にはならない。
稀にフィーリング全開状態に入ると、時間が止まってしまう事がある。
正確に言えば時間と云う観念を、自分と切り離せる。
……のだと、考えている。
ま、それはそれとして、集中力などと云うものと縁遠い俺は、フィーリングだけを武器に暑さや寒さ、はたまた世の中の軋轢と渡り合う。
これからまだまだ暑くなる。
帰る途中でもう一度プラムを買うと、いよいよ自分が目を覚ましたのだなと苦笑いがもれた。

久しぶりに自分の出勤簿に目を通したら、今月はべらぼうに休みが少ない。
俺が仕事ばかりしている内に、アレヨアレヨと世は巡り巡って夏休みぢゃんね。
昨日あたりは遠方から妹の娘が地元の祭りへ遊びに来ていたらしいが、まるで関係無し……。
お祭りかぁ……。いいなぁ〜。
夜も更けると暴走車の無駄な排気音は響いてくるし、夏休みなんだなぁ。
小派手な噂も耳にするが、かったるいから関係無し。
休み、欲しいな……。
そんなシケたところへ、かつての悪党から電話が入る。
全く以てくだらない内容の話で、お互い絶好調に爆発した。
世の中のありふれた出来事程、奇妙であり、珍妙でもあるゆえ大笑いできると云うのは、一皮剥くと哀しくもなりますな。
こんな静かな夜に何が欲しいって事も無い。
ただ、あぁ、夏休みなんだなぁ〜って、気もそぞろになっちまうだけ。
ひび割れた徳利をかざしたオッチャンが俺に言う。
「お前は男か? それとも腰抜けか?」
いや〜、ただのボンクラっすよ……。
ヨレヨレの目をしぱたいて俺に問う。
「自分の城が欲しくないのか?」
……俺の城ねぇ……、既にあるにはあるんだがね……。
オッチャンが言う城とは若干食い違うんだよなぁ。
昭和の名前をした平成の女が意味深く問う。
「色が白い方が可愛くない?」
いやぁ〜、おりゃぁー抱き心地重視だな。色はあんまし関係無いね。
「じゃぁ、あたしはどうなの?」
それは……、一度抱いてみないと何とも、な……。
「見た感じでどうなの?」
……ん〜ん。……春先の……月の青い夜なら……良いかも、な。
「そんな先かよ!」
焼肉屋にて化石になりそうな名古屋人が俺を諭す。
「自棄になっちゃイカンよ。山あり谷ありやからね」
ニン、ニン、ニン。
びっくりしたのは、あちこちで不意を突く様に猫達に歓迎された事。
今日だって表を歩くにゃ暑いって云うのに、君等は何故に寄ってくるんだ?
個人的には見逃して欲しいんだよな。
ほら、俺、リーチだからね。
スペインからニーニャの後ろを素早く走り抜ける、華麗な哀感と、
L.Aのチカーノ達が奏でるトレモロ
アルゼンチンのジプシーと、ベルギーのジプシーにも憧れるし、
1930年代を放浪しまくった奴等には頭があがらない。
レイドバックは嫌い。でもパヒヌイの優しいゆったり感は夢心地にしてくれる。
それらに近しいモノが無いかなぁ〜って、朝から晩まで空ばかり見てんだけど、
なんも聞こえてこない……。
振り返ったら見た事のない猫がケースの上で寝てた。
だから、今はまだいいか。
一休み、一休み。
明日は九十九里から犬吠埼へ。
煙草を買おうと思ったら「タスポをタッチして下さい」って販売機が能書きを言いやがった。
「なんだと……」
そういや、そんなシステムになる話は米ちゃんから聞いていたが、今日からだったか……。
元来、カードってヤツが大っ嫌いな俺は、そんなダサいブツを申し込む気には更々なれず作っていない。
しゃぁ〜ないから店の奥に声をかけて、おばちゃんに出てきてもらう。
おばちゃんは俺に煙草を渡しながら「今日からだから、作っておかないと駄目よ」と言う。
「やぁーだ、便所!」
声を出さずに悪態をついて煙草に火を点けると、なんだか煙も幾分ショボい味がした。
販売機の雨よけの上の方には燕の巣がある。
見上げたら明日辺りには空巣になりそうだ。
もう、どいつが親でどいつが雛なのか分からない。
みんなが一様に頭を内側に向けて尾羽を突き出しちゃって、無理矢理、巣に納まっているといった風で滑稽に見える。
その時だった。俺が吐き出した煙の上空を、ピュイッと一羽が風を切って飛び立った。
すると、また一羽、そしてもう一羽、一羽と順繰りに飛び立ってゆき、あっと言う間に巣は空屋になった。
俺の視界を遥か越えて、素晴らしく格好良い飛び方のあいつ等。
煙草をタスポの識別部で揉み消してやると、散らばった火種で指先がチリチリとした。
「米ちゃんに、キンキンに冷え冷えのレモネードをふるまって貰うか……」
俺はバイクに飛び乗って、あいつ等気取りでアスファルトの上を滑る様に走ってゆく。