俺の親のさらに親(祖父母)までは知っているけども、それ以前の祖先については何一つ知らないに等しい。
名前すら聞いた事もない。
父方の祖先はわら葺きの職人であったと聞いた事はあるなぁ。
眉唾だけども、母方は源氏の末裔だとかって話も聞いた事があるなぁ。
仮に本当だとしても、末端の末端のさらに末端の血だろうな。
九郎義経好きの俺には喜ばしい戯言だ。
いわゆる大枠で知られる歴史との接点はその位であり、最後の最後の最後には「太陽系の地球には人間なる生きものがおったとさ」の塊の針の穴程のどこか一点位。
だけども、悟りなど縁遠い俺なぞは、その日、その時、その一瞬刹那を捕えたくて……捕えたくて、せいぜい四苦八苦して、七転八倒して……一言位残せたら上出来かなぁ。
うむ。一言は残したいね。
おしむらくは。
アニー・リーボヴィッツは残しただろう。これからも残すんでしょう。
映画館には人が入ってなかったけども。
「ダンスは写真に納められない」
つまり、ある流れの一部分だけを写した写真ではダンスは理解できまいだろうとアニー・リーボヴィッツは言っている。
なぜなら瞬間でしか捕えないから、ダンスそのものが伝わらない。
そして、「それでいいのだ」とも。
写真は写真、ダンスはダンスだと云う事と俺は解釈した。
彼女は写真を撮って気付いたと云うよりも、撮る事によって確認出来たと云う感じだった。
カメラと云うツールを使い、写真の中にどこまで写し取れるのか? そんな風の事を問うてる感じ。
これに近しい事を俺自身もよく考える。
胸の内にある何か、もうそれは何かとしか言い様がない感覚を、一滴も余さず捕えきり、眼前にありありと浮かび上がらせたい衝動に駆られる。
それがたまたま俺の場合は歌になるのだが、なんとか形にする事で自分の中に一つしるしをつける作業となる。
その時だけは過去も未来もなく、一瞬感の想い(それは感情と云うものとは違う)を身の内から跡形も無くなる前に止めようと躍起になるが、結局は完成して時が過ぎてゆけば過去となり、未来になったりする。
瞬間を捕えようとすればするほどに、流れと無関係ではいられなくなるのだな。
あぁ……また眠すぎる。
つづく
先日、映画館にて「アニー・リーボヴィッツ」を観た。
去年(ん? 去年だったか?)予告編を観るまでその名前すら知らなかったのだが、彼女が撮った写真の何点かは見覚えがあるモノで(みんな俺好み)、予告編を観た事で人と作品が繋がり興味をもった。
米ROLLING STONE誌のカメラマンとして数々のカッコいい写真を撮った彼女が映画の中で言った「ダンスは写真に納められない」(大意)と云う一言が胸に残る。
幾ら瞬間を捕えても、ダンスそれ自体は伝わらないというのだ。
彼女の言った内容に、もっともだと共感した訳ではない。
ただ、スクリーンで彼女がそう言った時に「……あッ、」と思い当たる節があったのだ。
しかし、もうダメだ……。
あまりにも眠すぎる。
iPod、なかなかに良い感じ。いつでも、どこでも自分のライブラリを携帯出来るのは愉快に素敵だ。
友人にあれこれ機能なり、規格をレクチャーされてみれば、結局は最高のおもちゃであると云う結論に達す。
あくまでも手軽に持ち歩けるのと云うのが売りであって、オーディオ感はあまり求めてはならんのだな。
しかし、その辺を割り切って考え、AMラジオを聴いて自分の好きな曲しか流れないと思えば、かなり重宝する。
個人的な問題点は自分でPCを持っていないと云う点だな。まわりの皆様にはご迷惑とご面倒をおかけして申し訳ありません。
もうひとふんばりして年内中には購入するつもりです。
俺の記憶の中では、カセット・ウォークマンが八十年代に出回った時がとても衝撃だったけど、iPodはもう何か違い過ぎて衝撃は少ないです。
そのあたりは悲喜交々であり、ただただ「時代が変わったよなぁ……」とぼやきながら、お山の向こうを見てしまいます。
最後に俺Podによる奇跡を一つ。
全六十六曲をランダムに流していたら(所謂シャッフル機能)「ストロベリー・フィールズ〜」が六十五曲目に流れ、最後が「ペット・サウンズ」になって終わったんだよね。
iPodの中に俺のツボを心得た小人が居て操作しているに違いない。

色々と検討した結果、iPod購入。
この端末が俺の助けになる事を願いつつ大枚叩きましたがな。
幸か不幸か年度末進行もあって、日中の仕事中に昼食を摂る暇がない為、懐具合に若干の余裕有り。
しかし、お陰で音楽を聴く時間にゃ余裕無し。
もはや、聴きたいと、満足感と、聴けてないブツのバランスがグダグダで罪悪感に近い感、有り有り。
……で、勢いで購入。
「さぁ! どうなのよ!」
ウキウキで帰宅する俺。
一応、購入前に下調べはしたのでPCとNet環境が絶対必要なのは了解済み。
未だに自分のPCを持たない俺は、接続を誰かに頼まなくてはならない。
その誰かを父親に設定し、先月にはその父親も了承済み。
しかし、これがいざやってみると若干面倒臭い。
俺なんか素人考えでデジタルのデータ変換を端末へ転送するなんざチョチョイだと思っていたが、何かの設定をしないと父親自身のPCデータまで送り込んでしまう始末。
プレイリストに美空ひばりや三橋美智也まで入ってますがな……。
親父も普段iTuneなど使用しないのでいまいち要領を得ない感じ。
そのこうする内に嫌気がさして来た模様。
やたらと「自分でパソコンを買え!」と連発してくる。
俺の夢計画は今夜中に二十枚からのCDを放り込むつもりだったが、敢えなく頓挫。
粘って交渉し四枚のアルバムを送り込んでもらう。
勿論、最終的には全ての俺CDをリストに入れるつもりだが、道程は大分長そうだ。
ちょっと驚きだったのが、取説が簡易的な物しか入っていなかった事だ。
要はNetに繋げなければ使用不可な端末なので、詳しい使い方はWeb上をご覧あれと云う事なのだ。
一番の肝はその音質だが、やはりと云うか当然に音圧は薄めで、無駄に高音に派手さがある様に思われる。
あまり音楽端末として大した事ねぇな、と云うのが正直なところ。
なので、あくまでも本腰を入れて聴くのはCDで、コチラは欲求不満の一助として、当面は馴染みの薄いモノを先行で移してゆくつもりだ。
さぁ! 俺のデジタル音楽ライフ、スタートです。
昨日の事であるが、俺のその場の思い付きによる「すーちゃん・オン・ステージ」は、歌と云うモノとステージと云うモノの足し算の難しさが露呈した大いに考えさせるものだった。
すーちゃんの演奏技術は噂に違わぬ高レベルであり、その音だけを傾聴するなら申し分無いのだが、いかんせん客席を埋めるのは(厳密にゆえばお客さんではないのだが)楽しませてくれるなら楽しみたいが、無理に楽しみたいと云う訳ではない人達なのだ。
俺はと云うと、すーちゃんを紹介した手前もあり、なんとか皆さんが楽しめる様に助力はしたが、すーちゃん本人が自ら場の空気を取り込もうとはしないので、最後までギクシャクしたままだったのが残念だ。
選曲は良かったんだけどなぁ……やはり生演奏で聴かせるんだから、その時、その場で、と云う部分を大切にして欲しかったな。
形が芸能なのに、スタンスが芸術家って云うのが、本音を言えば興醒めなんだよ。
そして、あの時、あの場で求められていたのは芸能だったのだ。それをすーちゃんは察して取り組むべきだったのだ。
もしくは一分の隙も無く芸術を貫くべきだったのだ。
やはり送り手と云うのは、ステージの上に立ったら危機感を持たないと受け取り手に気押されてしまうのだな。
受け取る方にその気がなけりゃ、どんな名演だろうが響かないものな……。
……と、理屈で書くのは簡単なんだけど、いざやるとなるとこれが凄く難しいんだよな……いや、難しいと云うか、ややこしい。
道はまだまだ長い。
なんつうの……時は無情に過ぎてゆくなんて事は百も承知なのに、いまいち……うむ、僅かだが確かに何か足らない感が蔓延しちまってピリッとしない。
これは冒険心の欠落の表れであるか、もしくは生粋のろくでなしへの転落かも知れない。
ふと思い返してみれば、脳みそを駆使して得る充足感がこの一週間の間まるで無かった。
理由の一つは許容オーバーで義務感が大きくなってしまったからだ。
「もう、水も飲めない……」なんて弱音を吐く程に満腹度が高く、新しいブツを目にするのさえ嫌悪を覚える。
若輩ゆえの我儘なのかもしれないが、好敵手を望んでしまう。
おざなりにならない炸裂する意識の交感で、憔悴して疲労と昂揚の狭間にまぬけな顔して浮かんでいたい。
灰になるまで。
美しくありたいなら、美しくあれ
ごく自然に 身の回りは平静で
陽は昇り 風は吹く
雲は流れ 月が巡る
科学が証明出来る事柄なぞ、煮ても焼いても喰えやしないものばかり
マンモスが闊歩した大地で グルメを気取るなんて白々しいと思うがね
「意味の無い人間」も悪かないぜ!
勿論、「意味のある人間」も悪かない。
紙切れ一枚用意して 自分の名前を書き殴り
百円ライターで火を着けたら
切れ切れ 散り散り 跡形もなく
宇宙の藻屑とあいなって
なんだか とても良い気分
歌を忘れたカナリアと 今の俺とに どれ程の違いもありはしない
「それは傲慢だ!」と君は言うかも知れないが
さりとて歩みは止められない
ただ、ただ美しくありたいと思うのは
まさか、ペテンだけぢゃあるまいよ。
いざ、漕ぎだせよ 大海原へ!
宇宙の塵と 幾多の泡沫
蚓の様に這い回ったり
阿呆鳥の様にバタバタしても
それ程捨てたモンぢゃない。
美しくあれと呼んでいる 一縷の野性がある内は
きっと……
きっと……
きっと……
去年の暮れの事だが、仕事で訪ねたお客さんの家にシャガールがあった。
台所と居間の仕切りになる襖の上に、額に入れられて飾ってあったソレは、俺の記憶が確かならA3位の大きさで、何色かのクレヨンの様なもので線画と云うか、モチーフだけをパッ、パッと描いただけのものだった。
なんで俺がシャガールだと判ったかと云うと、あの妙チクリンな鶏(シラケ鳥みたいな奴)がモチーフの中に大きく描かれていたからである。
「シャガールですよね?」ときいてみると、老齢の夫人はやや嬉しそうに、その一枚が間違いなく真作である事、そして習作である事を教えてくれた。
あぁ、なるほど。習作だから色が着いてないのか。
御夫人は若い時分からシャガールが大好きで、かねがね一枚で良いから本物が欲しいと思っていた、と。
しかし、たった一枚と云えども簡単に出来る買い物ではない。
そうこうしてたら、習作ではあるが手の届く値段で今の一枚に出会ったので、「えいやっ!」と買ったと云う事だ。
実際のところ、こう云ったモノが幾ら位するのかなぞは、さっぱり分からないけれども、やっぱしねぇ……お高いでしょうな。
そう云った金額の下衆な勘繰り云々よりも、「シャガールのある生活」を選んだ事にキュンときましたね。
たまたま俺は判ったんだけども、殆どの人が「なんであんな落書きを飾っているの?」と云う様な事を言うらしい。
それでも本人には、ソコにシャガールがあるって事で、全然生活の風景が違う訳だ。
先日、某所の美術館にて何度目かのシャガール達と対面してきた。
あの深い、深い青を眺めながら、あのオバチャンを思い出した。
一つだけで良いから、何かがある暮らし。
悪くないね。
もっとも、俺には十分すぎる程あるけども。
ところで、俺の勝手なイメージかも知れないが、シャガールって女性人気が高いと思うんだけど、なんでだろ……?
やっぱり、あのシラケ鳥が良いわけか?
邦訳『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリィフィンの冒険』では会話の中に「チョロまかす」と云うのがよく出てくる。
この「チョロまかす」と云う感じが昔からとても好きである。
これが一度「盗む」となると、同じ行為であろうとまるで様子が違う。
これは少年達の無邪気な思い付きと、少年であろうが成人であろうが年齢に関係のない、悪意ある行為の違いを訳者が上手く置き換えた好例であるなぁと思う。
この他「かっぱらい」「ひったくり」「万引き」「泥棒」「盗人」など、様々な言い方がある訳だが、やはり全般的に悪意ある盗みはやられる方にしてみれば、たまったもんぢゃない。
俺も過去に「空き巣」に入られて、貰ったばかりの給料袋から三万抜いたきり、残りを全部持っていかれて途方に暮れたっけ。
あの、おっさんもそろそろ出所して来る頃だな、たしか……。
いや、もうしてるかもなぁ……。
――彼は実際その行為に及ぶに至って、それ程考えると云う事はしていないだろう。
この「盗人心理」と云うものは不思議なもので、一度成功を治めると次の機会も必ず成功すると信じられるらしい。
しかし、いざその段になると何に怯えているのかギクシャクし、辺りに人影など無いのに「急げ! 急げ!」と急かしだすのだから呆れたものだ。
そして、彼の狙う獲物と云えば実質的には魅力に乏しい物ばかりで、結局は財布を軽くするのが嫌なだけで事に及んでいる訳だから、精々「こそ泥」位のもんなんだけど、本人は「大怪盗」を気取りだすから困ったものである。
更に、彼の悲しい性質は事が済んだ後も全開で発揮され、色を塗り替えたり、シリアルを擦り落としたり、はたまた警察がウロウロすれば、獲物を人目の付かない奥深くへ隠して、やっと呼吸を楽に出来ると云った風で、やればやる程「次へ、次へ」となり、やればやる程、必要以上に人の目を気にすると云った堂々巡りが果てなく続く結果となる訳だ。
こうやって人間は自らの行為により、何者かに成ってしまうのだな。
でもな……
カッコ悪いから止めな。
時代は変わるんだからよ。
FIN