同じ会社に勤めている二十代の子が口にする、ミュージシャンやバンドの名前がまるで分からない。
無論、その曲も。
しかし、それでいいのさ。音楽タレントの類には、興味など湧かない性分なのだから。
俺にとって音楽を聴くと云う行為は、俺と云う原子集合体と得体の知れない精(もしくは、生)が寸分違わず合致して、宇宙の中に「自由」を見いだせる事の一つであるからして、水で薄めた牛乳なぞを口に含む暇はないのだ。
そして、夏川りみ「歌さがし」である。
まず、りみちゃんは歌手である。ここが結構大事なところであって、なぜなら今現在歌うと云う行為はマスターベーション化が進行してしまい、ほぼ皆がカラオケを歌う様に己自身をぶつけるが如くして歌うから、「歌」そのものは自分(歌い手)を演出する小道具 よろしく、歌い手と供に成長する機会を与えられずに葬られ、最後は……どうなるのかなぁ〜? これは時間が経たないと分からないけれど、おそらく昔の歌謡曲みたいな懐メロにさえ成れないんぢゃないかな。
「歌」と云うものは元々自然に生まれるものだ。
そして、それを生かすのも、殺すのも、あとは「歌い手」次第だと思う。
それは要するに「音楽愛」だと思う。
歌を歌うなんて云うのは誰にでも出来る事なんだな。全然特別な事では無い。
ただ、その時に「自分はどう歌うのか」と意識的に取り組むのが「歌手」なんだな。
その意識的なところが音楽愛なのさ。
あのよく聞く「感情移入がどうたら〜」なんて云うのは俺に言わせりゃ論外で、そんなもん小学生からお年寄りまで、いざ歌を口にすれば「気持ち」は入るものなのだ。
そのずぅーっと向こう側の意識的なところに、「歌い手」は存在する。
で、やっと、りみちゃんなんだけど、「歌さがし」と云う今回のアルバムがカバーアルバム、つまり本来自分の持ち歌でない曲を集めたアルバムだったので、「夏川りみ」と云う歌い手の意識が見事に映し出されて、その歌は歌声の更に向こうにある音楽の素晴らしさを感じさせるんだな。
夏川りみは歌手なのだ!
そして、肝心の歌手・夏川りみを再確認させた「歌さがし」と云うアルバムの内容はというと……。
(思いの外、前置きが長くなったので、つづく。)

年をとると云うよりは、
年を重ねると云った具合で
年輪の中心部へゆくに連れ、微細な小宇宙。
枝葉を掠める手前勝手な風になど、ビクともしない幹になれりゃ、
もっとアンタは楽になる。
いきがり野郎のいきがかりで、アンタの森は乱伐され、
血の気が上がって温暖化は突進し、
地球が砂漠に、砂の惑星になるより前に
崩折れ、朽ち果て、塵と舞い、バクテリアと手をとり、原子分解No.0169430は大宇宙に漂うだけ。
その事情について世界人口の何億分の一にしか理解を得られないが、
しかし、何億倍もの意味がある。
「生きる」意味など知らないが、「生きてる」事に意味があるって云うのはそういう訳さ。
すべての階段を登りきり高みから見下ろせば、雑事は少時の夢の泡になるやも知れないが、
それは地べたに根を張って「幸せ」を築く人々の知恵であって……
どうなの?
次世代へ対話する様に、君は開拓せねばならない。
あらゆる荒野を。
とめどなく溢れてくる水脈を探り、数々の哀しみを威厳の肥やしにして、
汗を流して耕さなければならない。
その場だけの熱情に夢中になるのは、ガキ共特有の毎日世紀末理論だ。
完全無欠の夢を見よう!
と、俺は思うのだが……
いわゆる「銀河番長」みたいなね(ここ、笑うところ)。
それでは、また今度会う日までお元気で。
張り詰めた冷気の中で、手に触れるか触れないかと云う距離をたゆたうメロディーがいざなう先に足跡が一つ、二つ……。
上昇する気流が邪魔をして、彫像の様に建ち並ぶ仮面の騎士は奇妙な礼拝堂で己の理念にがんじがらめ。
宵闇の天幕に潜り込んで俺は泥棒を働く。
「おぎゃーっ」と産まれる前の数年から、
モノクロからカラーへ、モノラルからステレオに架け橋を渡す眼鏡猿達の脳みそは宝の地図が潜んでいた。
ぐっすり眠りに落ちた彼らが口添えしてくれた秘密の楽園で、想念のパイロットに成り済ました俺は六感をギラつかせながら、ナルシシスムとシュルレアリスムに胡散臭いリアリスムを混ぜ混んだ絢爛豪華な城を爆撃する。
たった一本の古木を、白い鳩が止まりる古木を鷲掴みにして、
アイルランド、スコットランド、西アフリカ、そしてアメリカ全土の時間を残らず飲み込みたい。
そいつをシェイクスピアではなく、夏目漱石に吟味して戴こう。
ただなぁ……絶対的に揺るがない事実として、ちょんまげに8ビートは不釣り合いであるから、嘘の上塗りに陥る危険も覚悟しておかないと子供の玩具にさえ劣るだろう。
着陸地点は射程距離にあるのだが、標準を合わせるには何もかもが廃墟の様で、幻を見ているのぢゃないかって気がしてくる。
いつだって、どこだって、何か分からないモノだけが刺激の鞭を振るって心の臓を働かせる気力(その本当の名は誰も知るもんか)に火をつける。
その紙一重のところを翔んでゆきたい。
これは「Deep Green」な雨粒
本当は「Dark Green」が正解だろうけど……
そんな事は問題ぢゃない!
喧騒と荒涼の織り成す重層を
一歩退いて眺めてみると
「Deep Green」な痕跡が生々しく残っている。
実際は「Big Brown」らしいけど(本人達曰く、だ)
視覚的には茶っぽい色調だけど、
俺の肌感覚では、深い深い緑。
そのカンパスの裾の方は淡く、青とも緑ともつかない透明感。
両性具有の爬虫類の様な生臭い息吹が
深い深い緑の間を這い回り、
悪魔と取引に興じ、打ち拉がれて旅立ち、滑稽な田舎者の結婚劇を語り、傍らで裸の祝祭を讃えている。
諦観する人生はジグソーパズルだなんて、革命を横目に叫ぶチンピラ共には通用しない。
しかし、その息子達もいずれは許されたい。
清貧。肉感。混血の奇形児はBLUESと呼ばれ
夜を忍んで来る女や、工場に勤める女達が次から次へと私生児を産み落とす。
そして、最後はすべての人々の為に杯をあげよう。
「Deep Green」の円卓を囲む俺や、君や、イエシャや、ピラトの為に。
「孤独」と「放浪」がビートで、
「愛」と「平和」がサイケデリックだって言う。
そんで、どうなの?
あんた、どうなってんの?
初めて万引きしたのが小学校にもあがらないチビ助の頃。
今となっては何がそんなに欲しかったんだか、さっぱり覚えてないだろ?
初めて人の顔面目がけて拳を打ったのが小学一年生。
あんなに哀しそうな瞳を見たのは、あの日が生まれて初めてだったんだって?
その年の夏に蝉が孵化して飛び立つ瞬間をやはり初めて目撃して、夜眠れなくなったらしいね。
やりたくもないトランペットを無理矢理やらされて学校をしこたま呪ったのが十一の時。
大体が何の為のブラスバンドで、鼓笛隊で、合唱コーラスなんだか……。
あれがきっかけで授業をサボる癖がついたんだよな。小学生の分際で!
まぁ、良いんぢゃないの。どうせ、あの方々には音楽の素晴らしさを子供にすら伝える事が出来ないんだから。
さぁ、80年代のクソったれが素通りしてゆくぞ!
あれが現在の君に何かを残しているとは、とても思えないね。
そう! 籠の外で弾んでいただけだって事。
否、嘘だ!
KYON2とか、ツッパリとか、角川映画とか、全日本歌謡選抜とか、ヌードマンとか、週間少年ジャンプとか、否が応にも辺りに漂いながら、取り込まれて消えた過去は皆殺しにしてた。
で、ドカーン!
ぶち当たる訳だ。
全く知らない何かだ!
あんた、あの時、ソレとは知らずに手を出したね。
今や、骨董品扱いで膨大な注釈が幅を効かせてやがるぜ!
気味が悪いなぁ〜と思うのは、皆が皆、口を揃えて似た様な事を言ってるや。
ギリギリが良いんだけど、重苦しくて耐えられないんだな。
そして、ビートでサイケデリックなら、ビンテージで本物で格好良い。
……のか?
そうなのか? 日の丸、日本。
ロンリー・オンリー・ワンみたいな、
喰わねど高楊枝みたいな、
故郷は遠きに在りて思うものみたいな、
思えば遠くへ来たもんだみたいな、
狩野永徳みたいな、
フィンセント・ファン・ゴッホみたいな、
アタウェルパ・ユパンキみたいな、
詠み人知らずみたいな、
道祖神みたいな、
Like A Rolling Stoneみたいな、
そんな塊でいい。
無価値で良いから。

ひょんな事から、悩める爺さん婆さんの打ち明け話を聞かされる。
なるほど。奴らはうまうまと年金暮らしの懐をかすめてやがる。
俺はいきががり上、後には引けまい。
なので静かなる反逆の狼煙をあげ、奴らの能面顔を歪める手を講じる。
すると、「それぢゃいかん!」と爺さん達が反対するので、最初の計画よりも若干紳士的に噛み付く事にしたのだが、今度は婆さん達が「それでは手緩い」と異議申し立てするので閉口した。
まったく、年をとっても男と女ではこうまで違うものなのかと苦々していると、ちゃっかり俺以外の者達は
インドネシアの辺りの、なんとかって名前の島で11才になる少年。
お父さんは漁師で、漁船の副キャプテン。
10人一組でチームを組んで、夏の間中海へ出て行く。
少年も15才になったら船に乗せてもらえるらしい。
例えば、少年自身は漁師以外の職に就いてもいいのだろうが、微塵もそんな事は考えていない。
至極当然の様に「僕もお父さんの様な漁師になる」と夢みている。
それが、今現在、赤道直下の島で暮らしている少年の夢だ。
11才にして人生の八、九割りを見据えているのだな。
なので、今や毎日の生活の全てが生きる勉強となってゆく。
風をよみ、波をよみ、雲をよむ。
沖合の海面に撥ねる飛沫で、鮪なのか、鯱なのか、鯨なのかを見分けたり、
薪を切り出したり、
網のほつれの修繕を学んだり、
船の修繕を学んだりと忙しい日々だ。
しかし、それが当然と云う様な顔で暮らしている少年。
まったく……、適わないなぁ……。
おじいちゃんも漁師で、そのまたおじいちゃんも漁師で、
だから、少年期はみんながそうやって過ごしたのだろう。
お母さんは海水から塩を作って、山の村へ物々交換に出かける。
米や、もろこしや、バナナや、芋、椰子の実と交換してくる。
暇をみては釜戸の灰を、焼き塩から出た汁で捏ね、海水を寝かす池の囲いを作る。
お母さんはお婆ちゃんからそのやり方を教えてもらい、そのまたお婆ちゃんはお婆ちゃんから教えてもらって塩を作っている。
「ここで生きてゆくって云うのは、こういう事なのよ」とお母さんは笑って言う。
鯨が沢山捕れた年は食物は安泰で、うまく捕れない年はお母さんが延々と塩を作っては山の村へゆく。
俺は綺麗事を言うつもりは更々ないけれども、多分、あの村では殺人とか、泥棒とかする奴はいないと思うな。
ただなんとなく生きてゆくって云う訳にはいかないから。
グレアム・グリーンの「田舎へドライブ」の話を思い出した。
「ただなんとなく」の中には狂気が潜り込んでしまう。
少年が、何時の日か乗り込む船を背に口づさんでいた歌が、耳の奥でこそばく響き続けている。
俺は少年の歌に近しいモノを作りたいと思う。